橋本真也選手の話

月曜日の昼2時ごろでしょうか。
仕事で調べごとのためインターネット検索を利用しようと思ったら
トップページに
橋本真也さんが急死」と出ていました。
仕事中だったのですがクリックして知りたい気持ちを抑えきれず
死因等概要を知ることになりました。


私が初めて橋本選手の試合を見たのは
アントニオ猪木坂口征二vs蝶野正洋橋本真也 をテレビで。
試合前に猪木さんがアナウンサーに
「(試合を)やる前に負けることを考えるバカがいるかよ!」と
張り手を食らわしたことでも有名な試合ですよね。
猪木さんのファンだった自分にとっては
とにかく「猪木に逆らう生意気なヤツ」としか映らなかったですね。
(当時私は小学校中学年ぐらいかな)


そのあとも新日本にいるときって
あんまり橋本選手を応援した記憶ってないんですよ。
上の世代になる
藤波辰爾選手の大ファンだったので
藤波・長州力世代との世代抗争のときも敵視してましたし。
小川直也選手にセメントマッチを仕掛けられたときも
ドームを混乱・半暴動に陥らせた小川選手のことを賞賛してましたし。


その次の小川選手との試合は
橋本選手の引退が懸けられて行われました。
あの「橋本真也 負けたら即引退スペシャル」です。
小川選手は前回同様プロレスではなくケンカを仕掛けてきました。
前回橋本選手はあっけなくKOされてしまったのに
この試合では何度も何度も立ち上がりました。
間違いなく前回以上のダメージは受けているはず
小川選手の必殺技であるSTOを2度も食らいながら立ち上がる姿には
「プロレスは負けたらいけない」
「これで終わりたくはない」という強い執念を感じました。
いや、そんな言葉では片付けられない鬼のような顔が宿っていたように感じます。
結果的にはKOされて引退することになってしまいました。
しかしあの鬼の顔は私の心に刻み込まれています。
破壊王が見せる笑顔とともに・・・。


その後橋本選手は
少年ファン二人が集めた復帰嘆願の100万羽の折鶴を見て復帰。
新団体「ZERO-ONE」立ち上げとなり
そこではプロデューサーとしても活躍し
私もその面白さに毎週雑誌で記事を楽しみにしていました。
そして橋本選手の下の世代が育ってきて
試合内容も充実してきました。
そのころには橋本選手も体がぼろぼろになっており
チョップも打てないほど肩の状態が悪化。
それでも橋本選手は
「俺が出ないと興行が成り立たない。」と無理を押して出ていました。
私は「もう橋本がいなくても下の世代で十分面白い興行ができるはず。
休んで手術すればいいのに・・・」と橋本選手を疎ましく感じていました。
その状況が4ヶ月ほど続いたでしょうか
そのころには嫌悪感にまで変わっていました。
だけど復帰は望んでいましたよ。


望んでそろそろ復帰の報告があるかと思ったときに、この悲しい知らせでした。
リングにいた破壊王を嫌ったままでさよならしなくてはならないのが悔やまれます。


一番心に残っているのは・・・
2003年5月5日の川崎球場であった金村キンタロー選手との電流爆破デスマッチ。
本当はその場には金村選手の師匠である冬木弘道選手が戦う予定でした。
楽しみにしてやっと実現の運びになったのに・・・冬木さんはガンで亡くなりました。
自分と戦うために病気と闘っていた冬木さんの遺骨を抱きながら
橋本選手は自ら爆破を浴びました。
その瞬間を雑誌で見たとき・・・目から涙がこぼれました。
そんな橋本選手のこと・・・尊敬していたんですよ。
人間として、男としてこんな人間になりたいと思ったから。


橋本選手・・・
あなたの尊敬していた織田信長が歌っていた
「敦盛」が私の頭の中をグルグル舞っています。
「人間五十年・・・」
親父を50で亡くしたときも同じ心境でした。
あなた、まだ10年あるでしょう!?
帰ってきてくださいよ
ハッスルキングもOH砲闘魂三銃士
まだまだ次のストーリーがあるんでしょう!?


書いてて悔しさがどんどんこみ上げてきます。
でも・・・もうこうしなくてはならないんですよね。


合掌・・・って